早く謡いたいな「高砂」😀

「高砂」というお能の曲名は、一番有名だろう。

この「高砂」一曲を謡えるように成る為に、嘉謡社に入門をしたが、なかなかこの曲に辿り着かない。

本当はこの曲だけで良かったのだが、やはりそういうわけにはいかず、観世流の初級の本から始めているので、先は長い。

Contents
1.「高砂」が謡いたい 。
2.あらすじ
3.見どころ
4.作者・世阿弥の意図は・・・
5.観世座と徳川
6.千秋楽

1. なぜ高砂が謡いたい。

なぜ、「高砂」を謡えるように成りたいかというと、茶道の茶杓や、茶碗をはじめ道具類に「高砂」にちなむ銘が数多く、

また結婚式などのおめでたい時によく謡われる曲だから、興味があった。

本来は「高砂」とは、海風で吹き上げられた砂丘・砂山のこと

兵庫県高砂市はこれが地名になったもので、高砂神社の一帯は遠浅の海岸線が美しく広がる浜辺だったということで、この能の前場になっている。

2.能「高砂」あらすじ

 醍醐天皇の御世の延喜年間のこと、肥後の国、阿蘇神社の神主友成は、都見物の途中、従者を連れて播磨の国の名所高砂の浦に立ち寄ります。友成が里人を待っている所に、清らかな佇まいをした、一組の老夫婦が現れる。松の木陰を掃き清める老夫婦に友成は、高砂の松について問いかけます。二人は友成に、この松こそ高砂の松であり、遠い住吉の地にある住の江の松と合わせて「相生の松」と呼ばれている謂れを教えます。そして、『万葉集』の昔のように今の延喜帝の治世に和歌の道が栄えていることを、それぞれ高砂、住の江の松にたとえて、称賛しました。老翁はさらに、和歌が栄えるのは、草木をはじめ万物に歌心がこもるからだと説き、樹齢千年を保つ常緑の松は特にめでたいものであるとして、松の由来を語ります。やがて老夫婦は、友成に、自分たちは高砂と住吉の「相生の松」の化身であると告げると、住吉での再会を約して夕波に寄せる岸辺で小舟に乗り、そのままか風にまかせて、沖へと姿を消して行きました。

 残された友成の一行は、老夫婦の後を追って、月の出とともに小舟を出し、高砂の浦から一路、住吉へ向かいます。住吉の岸に着くと、男体の住吉明神が姿を現しました。月下の住吉明神は、神々しく颯爽と舞い、悪魔を払いのけ、君民の長寿を寿ぎ、平安な世を祝福するのでした。

後場に登場する住吉明神

3.見どころ

高砂は、室町以来現在に至るまで、能の代表的な祝言曲として、親しまれてきました。脳を見たことがない人でも、「高砂」の名を知らない人は少ないのではないでしょうか。たとえば、婚礼の席で、この曲の一節「高砂やこの浦舟に帆をあげて・・・」や、「千秋楽は民を撫で・・・」といった謡を聞いたことがあると思います。

 「高砂」では、松が作品の中で重要な役割を果たしています。松は、古来、神が宿る木とされ、常緑なところから「千歳」とも詠まれることが多く、長寿のめでたさを表します。また、雌雄の別があり、夫婦を連想させます。

 世阿弥はこの能を、「古今和歌集」の仮名序の「高砂、住の江の松も、相生の様に覚え」という一節を題材として創作しました。「播州高砂、摂津の国住吉と、国を隔てて住みながらも、夫婦をして暮らす老人老女」という人物設定で、長寿や老夫婦の睦まじさを称えるとともに、松の長生のめでたさを和歌の道の久しい繁栄になぞらえて、美しい詩と、清々しい所作、舞とで、素晴らしい表現を創り上げたのです。

 寿ぎ、祝うといっためでたさを、明るく、崇高で、清らかな雰囲気で満たした、気品のある名曲です。

4.世阿弥の意図は・・・?

能は当時、最高権力者である足利将軍家を最大の顧客としていました。新作、ことに社会情勢に縁ある能には、将軍家、また、一心同体の関係にあった北朝の天皇家の、賛美の意図を織り込むことを忘れませんでした。

世阿弥の在世当時、九州屈指の名家で、強大な軍事力・経済力を誇る阿蘇家は、阿蘇神社の大宮司色をめぐる同族争いが続いていました。都の上流階級では、その件と、南北朝の対立をかぶせて、相当な話題にされていました。そんな中、阿蘇家の両陣営から訴訟が起こって、都で裁判が行われ、将軍家の采配で仲裁が試みられます。つまり、世阿弥は、応永29年(1422年)の阿蘇家訴人上洛を当て込んで、上洛習慣のない阿蘇神社の神主みずからが、都に上る趣向による物語「高砂」を創ったのではないか、考えられるのです。

南北朝合一(1392年)を成功させた足利将軍の絶大な権威による主導なくしては実現できないという、政治的メッセージがこの能の裏側に読み取れます。


5.観世座と徳川

世阿弥当時、父である観阿弥や、後継者で名人として知られた甥の三世・音阿弥の絶大な実力と人気によって、他にたくさんあった能の座の中で観世座が単独優位に立って足利将軍家の愛顧を得ます。

戦国の乱世では、能役者たちは後継者を失って一転、大変な苦しみに遭います。七世・観世宗節(1509~84)の時代がその転換期でした。宋節は、天文11年(1542)、京都の自邸での火事の為多くの伝来品を失います。長く支えだった足利将軍の権威は地に堕ち新たな天下人・織田信長は小鼓が巧みだったわりに観世太夫には極めて冷淡でした。なす術もなく一座は崩壊。ついに元亀2年(1571)宋節は駿河・浜松に下ります。そこには、観世別家を継いだ兄・十郎がおり、その縁を頼って、先の読めない悲惨な都落ちでした。

その駿河十郎こそ、将来は天下人となるとも知らず今川家の人質として長く雌伏していた、徳川家康の愛顧を受けた能役者でした。落ちぶれた宋節を受け入れた時、家康は29歳。彼の能好きは、後に金春流の能に凝った豊臣秀吉よりも、はるかに先立ち、しかも、浜松で暇を持て余す観世太夫・宗節に指南を受けた本格的なものでした。長い戦国の不遇期を経て、宋節の孫である9世・観世黒節(1566~1627)の時代に、家康の格別な引き立てにより観世座が再び猿楽筆頭の名家に取り立てたれます。

6.千秋楽

「高砂」全曲の最後は【千秋楽には民を撫で、万歳楽には命を延ぶ。相生の松風、颯々の声ぞ楽しむ】と舞い納めます。この短い終局部分だけ取り出し、一日の能の催しの最後を祝う 『付祝言』として謡い添える風習がありますが、これが芝居や、相撲の興行最終日『千秋楽』の語源となったようです。


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